帯締めの謎

相変わらずの猛暑続きですが、少しずつ、秋の気配が近づいていますね。

今朝は久しぶり(1か月ぶり?)に早起きして(4:30am!)、ウォーキングに出ましたが、日の出の時刻がすっかり遅くなっていてびっくりしました。

9月も後半ですものね・・・。

季節は秋です。(⌒∇⌒)/

 

 

さて、なでしこ会のブログでは現在帯締めを扱っています。

先日丸組の結び方をアップしました。

この後は平組の結び方と平組の注意点、そして帯締めの種類や歴史などについてもちょこっと触れて行きたいと思っています。

 

無責任なことは書けないので、一応、確認も含めて調べています。

特に帯締めの歴史について。

そうしたら、ドツボにはまってしまいました・・・。(^_^;)


「帯締めがいつ頃から使われ始めたのか」をいろいろと調べていくうちに、

『文化14(1817)年、江戸の亀戸神社のお太鼓橋が完成したとき、深川芸者がその橋にちなみ、形を似せて帯を結んだのが「お太鼓結び」の始まりと言われており、そのお太鼓結びでは帯締めを使って帯を固定していた』

という記述が手元の本にあったり、他にも『江戸末期の文化年間、当時人気のあった歌舞伎役者が衣装の着くずれを防止するために、帯の上に紐を締めたのが始まり』という記述もいくつかのサイトや本にも載っていたりしました。

 

この当時の帯締めは、布製で綿をつめて閉じた《丸ぐけ》ですね。

 

ふんふんふん・・・と頷きながらふと思い出したのが、TVシリーズ《鬼平犯科帳》の長谷川平蔵の妻久栄。

彼女は武家の奥方だから、帯結びは《文庫》。でも確かテレビでの彼女は《丸ぐけ》をしていたなぁ。

鬼平は松平定信のときだから、江戸後期の始めくらい・・・。

 

あれ、まてよ?《水戸黄門》のかげろうお銀も、確か帯揚げと帯締めをしていたハズ・・・。

でも黄門様は5代将軍綱吉の時代(=元禄)で江戸中期の始まりくらいでは?

 

あれ、帯締めはいつからだ・・・?

 

となってしまいました。(^_^;)

 

冷静に考えれば、水戸黄門は時代考証を無視したエンターテインメントだし、鬼平は時代考証もしっかりしているとはいえ、やはり時代劇。

帯締めに惑わされてはいけませんね。(^_^;)

 

でもね、時代劇ファンとしては、「助さん・格さんは貝の口や神田結びを結んでいる」とか「鬼平が市中見回りのときは片挟み(=浪人結び)」とか、ついつい、時代劇の着姿に頼ってしまいがちなのは、しかたがないことです・・・。

 

でもそれはそれとして、さらに調べていくうちに、自分の中で新たな発見。

・文化14年の亀戸神社のお太鼓橋は、この年に初めて作られたのではなく、再建なのだということ。

・お太鼓結びは文化14年よりも前から存在していたこと。

がわかりました。

 

お太鼓結び自体は、その名称や形は若干バリエーションがありますが、どうやら1700年代半ばにはあったようです。でもそのときは帯締めのような紐でおさえるものではなかったらしく、やはり文化14年頃のお太鼓結びから、帯締め(=丸ぐけ)を使いだしたようです。

ようやくこれが分かって、スッキリ!

 

帯締めの始まりを調べていくうちに、思いがけずお太鼓結びについても詳しく調べることになってしまいました。

疲れたけれど、満足感。

 

でも実はまだ引っかかっているのが、武家の奥方の文庫結びは、帯締め(=丸ぐけ)を使っていたのかどうか。

これについては、また機会(と気力)があれば、調べてみようと思います。

 

 

ぐだぐだした独り言にお付き合いくださり、ありがとうございました。

<(_ _)>

 

きものカルチャー研究所 

 港北ニュータウン教室

ありさわ着付け教室

〒224-0037

横浜市都筑区茅ヶ崎南1丁目

 

 

 お気軽にお問合せください。

⇒ お問合せフォーム